徳 田 秋 声 (とくだ しゅうせい)
明治4年〜昭和18年(1871〜1943)
小説家。本名徳田末雄。金沢市生まれ。
四高を中退して上京、尾崎紅葉門に入る。
『雲のゆくへ』(明治34年)を刊行、小説家としての地位を確立。
自然主義時代を迎え、『新世帯』(明治41年)『黴』(明治44年)
『あらくれ』(大正4年)などを発表、その代表的作家となる。
妻の死後、山田順子と恋愛に陥り、一連の「順子もの」を書く。
その後、私小説・心境小説を手がけ、『仮装人物』(昭和13年、
菊池寛賞)などの名作を残す。
最後の長編『縮図』(昭和16年)は、情報局の弾圧のため未完の
まま遺作となった。
石 橋 忍 月 (いしばし にんげつ)
慶応元年〜大正15年(1865〜1926)
評論家、小説家。本名石橋友吉。福岡県生まれ。
東大法科卒。在学中から文学評価に才筆をふるう。
内務省を辞して北国新聞に編集顧問として入社。
小説『惟任日向守』(明治27年)をはじめ多くの評論・
随想を発表。金沢の風俗、人情の消極的退嬰性を批判。
また、四高生桐生悠々を見いだし、発表の場を与えるなどの
功績を残す。 その後、弁護士を開業、長崎市に移って市議、
県議などもつとめた。
妻 翠は前田家の家老 横山氏の一族である。
山 本 健 吉 (やまもと けんきち)
明治40年〜昭和63年(1907〜1988)
評論家。本名 石橋貞吉。 長崎県生まれ。
石橋忍月の三男。慶大国文科卒。
在学中、折口信夫に師事、改造社に入社。
一方、中村光夫らと同人誌「批評」を創刊(昭和14年)
『私小説作家論』を連載。
戦中戦後、新聞・雑誌社などを経て、著述の道に入る。
『古典と現代文学』(昭和30年、読売文学賞)
『芭蕉ーその鑑賞と批評』(昭和31年、新潮社文学賞)
『柿本人麻呂』(昭和37年、読売文学賞)
『詩の自覚の歴史』(昭和54年、日本文学大賞)などがある。
芸術院会員。文化勲章受章。
桐 生 悠 々 (きりゅう ゆうゆう)
明治6年〜昭和16年(1873〜1941)
ジャーナリスト。本名桐生成次。金沢市生まれ。
東大法科卒。四高在学中、徳田秋声と上京するが復学。
石橋忍月に認められ、「北国新聞」に多くの作品を発表、
大学卒業後、「下野新聞」「大阪朝日」などの記者を経て
「信濃毎日新聞」の主筆となるが乃木殉死批判により退社。
後、再び同紙主筆となるも『関東防空大演習を嗤ふ』(昭和8年)
によって退社。
以後,個人誌「他山の石」を創刊(昭和9年)圧力にめげず
軍部批判を続け、生涯自由人として反骨精神を貫く。
徳 田 一 穂 (とくだ かずほ)
明治37年〜昭和56年(1904〜1981)
小説家。東京都生まれ。徳田秋声の長男。慶大中退。
秋声会の同人誌「あらくれ」の創刊(昭和7年)に際し、
発行兼編集者となる。
その後、『縛られた女』を刊行(昭和13年)、室生犀星らと
「文学者」を創刊(昭和14年)、『女の職業』(昭和14年)
『取り残された町』(昭和14年)『北の旅』(昭和17年)、
評論随筆集『受難の芸術』(昭和16年)などを刊行。
手堅い写実的な手法と都会的な繊細なセンスで昭和10年代に
名を残す。戦後には、『白い姉妹』(昭和22年)があり、秋声の
作品の校訂、解説に力を注ぐ。
寺 崎 浩 (てらざき ひろし)
明治37年〜昭和55年(1904〜1980)
小説家。岩手県生まれ。早大仏文科中退。
在学中、火野葦平らと、同人誌「街」を創刊。
詩作、劇作なども志す。
その後、横光利一に師事、『角』(昭和8年)で文壇に出る。
『森林の結婚』(昭和14年)などの私小説のほか、
『楕円の脈』(昭和10年)のような実験小説的傾向のものもある。
戦後は都会の男女風俗を描いたものが多い。
後にサンボリズムの手法が叙情的筆致の中に生かされた
『情熱』(昭和38年)や自伝小説『青の時』(昭和40年)などが
ある。妻は徳田秋声の次女喜代。