暁烏 敏(あけがらす はや)
明治10年〜昭和29年(1877〜1954)
- 歌人、宗教家。俳号非無。石川県松任市生まれ。
- 真宗大卒。明達寺住職。
清沢満之の薫陶の下で浩々洞を結成、「精神界」を創刊
- (明治34年)、編集に従事し仏教の近代化と親鸞思想の
- 敷衍に寄与。後、石川県に戻り、藤原鉄乗・高光大船らと
- 愚禿社を結成、「氾濫」を創刊(大正6年)、多くの知識人、
- 門信徒の尊敬を集める。
歌集に『地球をめぐりて』(昭和5年)などがある。
- 詩、俳句、評論、随筆も多く『暁烏 敏全集』(昭和53年)に収録。
鈴木大拙(すずき だいせつ)
明治3年〜昭和41年(1870〜1966)
-
- 仏教学者。禅思想家。本名 鈴木貞太郎。金沢市生まれ。
- 東大哲学科選科卒。 在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、
- 釈宗演に 師事して参禅、大拙居士の称号を受ける。
渡米して東洋哲学・仏教書の翻訳、雑誌の編集に従事。
- 帰国後、学習院大、大谷大教授を歴任。文学博士の称号
- を得る。その後、欧米の諸大学で仏教哲学を講じる。
- 鎌倉の東慶寺内に禅文献を集めた松ヶ丘文庫を創設。
- 日本学士院会員。文化勲章受章。代表作『禅と日本文化』
- ほかを収めた『鈴木大拙全集』(昭和46年)がある。
西田幾多郎(にしだ きたろう)
明治3年〜昭和20年(1870〜1945)
- 哲学者。石川県宇ノ気町生まれ。東大哲学科選科卒。
四高、学習院教授を経て京大教授、文学博士。
四高在職中、三々塾を作り、学生と思索の場を持つ。
- 『善の研究』(明治44年)で思想界に登場、西洋哲学の
- 手法を摂取しつつ東洋の思想伝統を表現すべく、
- 独自の概念と論理の構築に務め、独創的な哲学体系を樹立。
- 西田哲学を慕って俊才が集まり、京都学派を形成、
- 日本思想界の指導的役割を果たす。文化勲章受章。
- 著書は、『西田幾多郎全集』にまとめられる。
藤岡作太郎(ふじおか さくたろう)
明治3年〜明治43年(1870〜1910)
- 国文学者。号東圃、李花亭主人など。金沢市生まれ。
- 東大国文科卒。三高教授から東大助教授。文学現象を時代の
- 環境に史的に体系づけた画期的な文学史『国文学史講話』など
- により、国文学を学問として確立するうえに功績を果たす。
- 研究は、絵画史・文化史・風俗史にもおよび『日本風俗史』
- (共著 明治28年)『近世絵画史』(明治36年)などのほか、
- 加賀藩五代藩主綱紀の事績を記した『松雲公小伝』
- (明治42年)がある。
三宅雪嶺(みやけ せつれい)
万延元年〜昭和20年(1860〜1945)
- 哲学者、評論家。本名 三宅雄二郎。金沢市生まれ。
- 東大哲学科卒。東大、文部省勤務の後、志賀重昴らと
- 『日本人』創刊(明治21年、後新聞『日本』と合併『日本及び
- 日本人』と改題)、政府の欧化主義に対し日本主義を鼓吹。
- 西欧文化の自主的摂取と日本人の伝統的な長所の護持を
- 唱える。『真善美日本人』(明治24年)刊行。その後も
- 妻花圃と『女性日本人』(大正9年)、女婿中野正剛と
- 『我観』(大正12年)などを創刊。生涯、野にあって硬派の
- ジャーナリストの道を貫く。文化勲章受章。